あおり運転による追突事故を傷害容疑で立件 ― 愛知県警豊田署2019年09月05日 13:40

「あおり運転で追突、傷害容疑 豊田の男を書類送検」という記事が9月3日の中日新聞に載っています。
あおり運転で追突、傷害容疑 豊田の男を書類送検:社会:中日新聞(CHUNICHI Web)

6月5日午後10時過ぎ、あおられた側の人が後ろのクルマのライトが眩しいのでクルマを降りてあおった側のクルマの窓をノックして意見を伝えたことが事のキッカケになったと伝えています。
数百メートルにわたってクラクションを鳴らしながら車間を詰めて走行してきたため、「怖くなり、パニックに陥り、とりあえず止まらなきゃと思い停車した」。そこにあおったクルマが追突してきた。ぶつかった衝撃であおられた側は腰に16日間のけがを負ったというものです。

驚いたのは「相手運転手にけがを負わせたとして、傷害の疑いで同県豊田市の会社員男性(25)を名古屋地検岡崎支部に書類送検した」の部分です。あおり運転による追突事故を傷害容疑で立件するのです。急ブレーキをかけた側を道交法違反とするのではなく、あおり運転をした側を暴行行為による傷害罪に問うという見解を愛知県警が示しています。
あおった側にしてみると、後ろのクルマが止まれないような急ブレーキをかけたことを道交法に照らし合わせ、道交法違反として相手の瑕疵を問うつもりはあると思うのです。頭に血がのぼりつつあおっている最中も事後のそういった勝算については少なからず意識していたのではないでしょうか。しかしそれは否定されます。
どういう経過をたどるのか今後が気になります。


バイクやクルマなんてものは気分よく運転するに限ります。危険行為の抑止を期待し罰則強化を望む声はあります。だけどそれで改善されることはおそらく限定的でしょう。
普段の生活全般で道徳的な立居振舞をさりげなく行えるようになることに、もしかしたら大きなヒントがあるかもしれません。

道徳・・・?

道徳について内田樹さんが語っています。引用します。
=== ここから ===
 こう言ってよければ、人によって、薄っぺらな道徳と厚みのある道徳がある。底の薄い道徳と奥行きの深い道徳がある。手触りの冷たい道徳と手触りのやさしい道徳がある。軽い道徳とずしりと重たい道徳がある。でも、正しい道徳と間違った道徳があるわけではない。
 どれもそれぞれの仕方で「正しい道徳」なのです。ただ、そこには程度の差がある。その程度の差をもたらすのは、こう言ってよければ、一人ひとりの成熟の差です。
 成熟した人の道徳は深く、厚みがあって、手触りがやさしくて、ずしりと重い。未熟な人の道徳は、そうではない。それだけのことです。そして、できることなら、成熟した人間になって、成熟した道徳にしたがって生きてゆきたい。僕はそう思います。

 具体的な事例をあげたほうがわかりやすいかもしれないですね。こんな場面を想定してみましょう。
 電車が満員で、座席がありません。そこに片手に赤ちゃんを抱いて大きな荷物をもった女の人が乗ってきました。誰か席を譲ってあげればいいのにと見回してみたら、高校生たちがおしゃべりに夢中になっていて席を譲る様子がありません。
そこでひとりのおじさんがその高校生の一人に向かって、「この人に席を譲ってあげなさい。君は若いんだから」と言ったとします。
 そういうこと、ときどきありますよね。
 ところが、そしたら、席を譲りなさいと命じられた高校生が、きっと顔を上げて、「あなたはいま僕を指さして『立て』と言われたけれど、どうして僕が席を譲らないといけないんですか」と口をとがらせて反論してきました。
さあ、大変です。
「高校生だって疲れ切っていて、あるいは外からは見えにくい身体的不調のせいで席を立ちたくないということだってあるでしょう。あなたは僕の健康状態について何をご存じなんですか?この車両にいる他のすべての座っている人たちの中からとりわけ僕に座る権利を放棄するように命じたことにあなたの側に何か合理的根拠があるのですか?」と反問してきました。まあ、ふつうの高校生はこんなしゃべり方をしませんけれど、話をわかりやすくするためです。
 たしかに、おじさんとしても、そう言われると困ります。電車の中で誰が席を譲るべきかについての一般的な基準なんかないからです。外から見ただけでは、誰が「立っても平気」な健康状態にあるのかなんてわかりゃしません。
でも、言ったおじさんは、こういう場合は平均的にいちばん体力がありそうな高校生くらいが席を譲るべきだという彼なりの道徳的判断に従ってそう発言したわけです。
 それに対して高校生の方は「それは、あなたが勝手に作った、主観的なルールに過ぎない。誰でも納得できるような、一般性のあるルールによって裁定して頂きたい」という異議を申し立てた。さあ、どちらの言い分に従うべきでしょうか。
 たしかにいずれも言うことは正しいのです。おじさんも正しいし、高校生も正しい。でも、二つの「正しさ」がかみ合ってしまった。二人ともたしかに道徳的に考え、道徳的にふるまっているんです。にもかかわらず、当面の問題(「誰が子連れの女性に席を譲るか?」という問題)はまったく解決していない。むしろ、おじさんと高校生がにらみあっているせいで、車内は険悪な雰囲気になってしまった。子連れの女の人も、自分のせいでそんなことが起きたので、かえっていたたまれない気持ちになった。「もういいですから、私は立ってもぜんぜん平気ですから」とおじさんと高校生にむかって小さな声でつぶやくのですけれど、その声は頭に血がのぼったふたりには届きません。

 おじさんが「道徳的」にふるまい、高校生が「道徳的」に応じたことで、事態は誰も何もしなかったときより悪化してしまった。よくあるんです。こういうこと。せっかく人々がそれぞれのしかたで「道徳的」なふるまいをしたのに。
 それは先ほど書いたように、道徳の規準が「ひとりひとり」に委ねられているからです。しかたがないことなんです。
 道徳の規準を自分ひとりだけに限定的に適用している限りはこういうトラブルは起きません。道端に落ちている空き缶を拾うとか、同時にドアの前に立った時に「あ、お先にどうぞ」と道を譲るとか、雪の降った朝に早起きして家の前の道の雪かきをしておくとか、とか。
 こういうのは一人で「やろう」と決めたら、誰の許可も同意もなしに、できることです。そして、ささやかだけれど世の中の役に立ちます。
 でも、そういう「よいこと」でも、他人にも押し付けようとするとだいたいうまくゆかなくなります。見知らぬ他人から「おい、おまえ、そこのゴミ拾えよ。世の中、住みやすくなるから」と命令されると、「かちん」と来ますよね。
 「道徳的な行い」は、自分ひとりで、黙ってやっている分には「社会秩序を保つ」役に立ちますが。でも、同じ行いでも、それを人に強制しようとすると、むしろ「社会秩序が乱れる」ことがある。なかなか難しいいものです。

 では、どうすればいいのか。
 車内ではおじさんと高校生のにらみあいがまだ続いております。そこにもう一人の人物が登場してきました。
 これまでのやりとりをじっと聞いていたひとりの紳士が席を立って「あ、私、次で降りますから。ここ、どうぞ」と女の人に席を譲ってくれたのです。いや、よかったです。みんなほっとしました。女の人も素直に「あ、そうですか、どうもありがとうございます」と空いた席に子どもを膝にのせて座ってくれました。高校生はまた居眠りに戻り、説教したおじさんは、いささかばつが悪そうですけれど、まあ「子連れの女性に座席を提供する」という本来のミッションは果たしたわけですのでそれなりに満足しました。
 よかったですね。
 でも、この席を譲ってくれた紳士は実は「次の駅で降りる」わけじゃなくて、もっと先まで行く予定だったのです。おじさんのやや高圧的な態度と高校生のきびしい反論のせいで車内がちょっと気まずくなったので、とっさに、緊張緩和のために「次で降ります」と嘘をついたのです。そして、その気づかいが他の人に知れないように、次の駅で降りて次の電車を待つことにしたのでした。
 この紳士のふるまいもやはりとても道徳的だと僕は思います。でも、この人の道徳はさっきのおじさんや高校生の道徳とはちょっとレベルが違うように思われます。良し悪しではなく、ちょっと手ざわりが違う。微妙に深くて、微妙にやさしい。
 その第一の理由は、この紳士が自分の気づかいが他の人に知れないようにしたからです。
ここが「深い」と僕は思います。
「私、次で降りますから」と言って席を譲った紳士が、すぐに降りたはずの駅のベンチに座って、次の電車を待っている姿をもし車内の人から見られてしまったら、「あら、あの人はこの場をおさめようとして、自分の席を譲り、自分の時間を少し犠牲にしたんだ」とわかってしまいます。そうなると、おじさんも高校生も気恥ずかしくなりますし、譲られたお母さんもかなり申し訳ない気分になります。みんなちょっとずつ気持ちが落ち込んでしまいます。ですから、席を譲った紳士はたぶんその気づかいが他の人に知られないようにしたんじゃないかと思います(電車が発車して、自分の姿が見えなくなるまで、ホームをゆっくり出口に向かって歩いてみせるとかして)。
 道徳的なふるまいにおいてたいせつなことは、「その気づかいが人に知られないようにする」ことです。でも、これはなかなかわかりにくい話なんですよね。
 ふつうは「いいこと」をしたら、それをできるだけみんなにアピールして、できることなら「おほめのことば」を頂きたいと思う。そうですよね。でも、「いいこと」をしても、黙って、そっと立ち去るということも時には必要なんです。「時には」どころか、できればあらゆる機会にそうである方が、世の中は暮らしやすくなるんじゃないかな・・・と僕は思います。
=== ここまで ===
道徳について - 内田樹の研究室

道徳を、正しいとか間違ったとかといった正誤判定ではなく、成熟しているか、あるいは未成熟なのかといった人間的な深みや厚みの観点で
語っています。この論考はとても合点がいき視界が開けたような心地よさを受けました。
ところで、内田さんのこの文章を読んでいるうちに何か思い当たる文章が脳裏に浮かんできまして、ああこれだと思い出したのが右翼の鈴木邦男さんの言葉です。

鈴木邦男氏が明言 「私は愛国者」と声高に言う人は偽物|日刊ゲンダイDIGITALから一部引用。
=== ここから ===
(鈴木):僕は日本が好きだけど、そんなに立派な国だとは思っていない。どうしようもない失敗もしてきましたからね。それでもこの国が好きだと思うのが本当の愛国心ではないですか。今は政権中枢が率先して「侵略も虐殺もなかった」と過去から目をそらし、歴史をフィクションで糊塗しようとしている。民族間の憎悪をあおり、韓国や中国をバカにした本が書店に並ぶ。韓国を褒めたり、日本政府を批判すれば、非国民のように叩かれる。そんなものは愛国心でも何でもありません。

――安倍政権イコール国ではないのに、ちょっとでも政府を批判すると、国賊扱いですからね。
(鈴木):しかし、「国のため」とか「私は愛国者」とか声高に言う人は偽物だと思いますよ。そういうのは、心の中で思っていればいい。行動を見て、周りが判断すればいいのです。外に敵をつくって支持を固めるのは、運動家の常套手段。政府や政党がそれをやるべきではない。

――この春から、小学校で「道徳」が教科化され、道徳心や愛国心に成績がつけられます。どうやって愛国心の有無を判断するのでしょう。
(鈴木):愛国心に右翼も左翼もない。周りに迷惑をかけず、人に優しくしている人が一番の愛国者です。無理して「日本は素晴らしい」と言わなくてもいいと思う。物を贈る時も「つまらないものですが」と言ったり、愚妻や愚息という言い方をするのが日本の精神ですよね。本来は謙虚な文化なのに、今は自分で自分を褒めてしまう。自国のことも「愚国」「弊国」くらい言ってもいいのにね。会社だって、弊社と言うでしょ。本当に自信があれば、謙虚になれるはずですよ。
=== ここまで ===
(3ページ目)鈴木邦男氏が明言 「私は愛国者」と声高に言う人は偽物|日刊ゲンダイDIGITAL


あおり運転の話でした。
短期的にはアダプティブクルーズコントロールとドライブレコーダーが実質的な対策になるのは間違いなさそうです。世知辛いです。

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