言論の自由2015年09月01日 00:20

民主主義と言論の自由。大事にしないといけないことは知っているものの普段の生活で意識することはほとんどありません。分かっているつもりだけど何故それが大事なのか、あるいは大事に扱うことで何を目指そうとするのか、これらを説明しようとするととたんに歯切れが悪くなり言葉に詰まってしまいます。

ヒントがありました。法学館憲法研究所のウェブサイトに掲載されている中高生のための憲法教室から引用します。
第34回<表現の自由と国民投票>

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表現の自由にはもうひとつ、民主政治にとって不可欠の前提をなすという重要な意味があります。民主主義に基づく政治は、そこで生活する市民の一人一人が自由に自分の考えを表明し討論することで、政策決定を行っていくという仕組みです。そもそも民主主義は、何が正しいかわからないからこそ皆で議論し、お互いの考えをぶつけ合って最もよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立ちません。
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「何が正しいかわからないからこそ皆で議論し、お互いの考えをぶつけ合って最もよいものを見つけだそうとする」
この考えに触れずいぶん見通しが良くなりました。しかしまだしっくりこない部分が残っています。

合点がいく大きな足掛かりとなったのが内田樹氏の論考でした。引用します。
言論の自由について再論 (内田樹の研究室)

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言論の自由とは
私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。
その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。
ただそれだけのことである。
だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。
私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。
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「言論の自由」は何のために存在するのか?
それは「理非の判断をお任せできる人々」を出現させるために存在する。
言論の自由さえ確保されていれば、長期的・集団的には必ずや正しく理非の判定が下る。
というのは事実ではない。
「理非の判定を下しうる人たち」は今まだここにはいない。
だからこそ、その出現が懇請されているのである。
そのために「言論の自由」はある。そのため「だけ」にあると言ってもよい。
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これらを丁寧に読み込んでいく中で、言論の自由についてより深く理解できたような気になりました。その一方で、これらを規制したいと考えている側の心の有り方を想像することもできるようになりました。
つまり規制することで何を目指すのか。
一つ言えそうなことは、言論の自由に対する規制が定常化されそれが当たり前になったら、そこには未成熟な大人による息苦しい市民社会が待っているだろうことです。でも、そういうのは嫌です。

言論の自由、引きつづき学んでいく必要がありそうです。